先々週の話ですが
実家へ帰っておりました。
初めて自分1人で中国自動車道を運転してきました。
といっても、西宮北インターから美作インターまでの距離です。
たかが2時間弱の運転ですが私にとってはとても大変な事でして。
このれんげ畑は勝央町のとある場所です。
育ちは津山市、
ですが、私が21歳くらいの時に親が引っ越して、
今帰るのは勝央町の家です。
母の手作りの花壇です。
冬に帰った時にはなかったのに、
こうやって、いつも帰ると家や庭に変化があって、
退屈しなくて、楽しめるんです。
サラダ用の葉っぱを一つのプランターに
まとめて栽培しているようでした。
2匹いた金魚が一匹になってました。
一匹どうしたん?って母に聞くと、
つらそうに説明しだして…、
なんか、、笑ってはいけないのですが、
そのつらそうな母の素振りに笑ってしまった~。
熱帯魚の水槽も増えてました、冬はなかったのに。
よくやるな~。
子供の頃の私や兄の物を整理しているようで、
これは小学生の時に買ってくれて、盆踊りの時に着た浴衣です。
これは大人用の浴衣で、今でも着れるので、持って帰って来ました。
あの頃、
小学生って、
みんな子供用の浴衣を着てたんです。
私だけ大人の浴衣で地味だったので、
他の子供達を羨ましくおもってたのですが。
こんな昔の生地でも大切にとっておいてくれたので、
今でも着れそうです、
地味ですが私には合うのだと思います。
これは小学生の頃、
母が編んでくれた当時、フードのついたオーバーって言ってました。
最近はそんな言い方はしないですかね。
これも、
あの頃、地元の小学生はナイロンのジャンパーを羽織っていて、
それも赤色が多かったかな。
手先の器用な母は編み物を感覚的に編んでいたようで、
本を見ずに、適当に。
でも残念ながら、
その手先の器用さは私には遺伝してませんので、
私は一切編み物は致しませんが。
この頃もナイロンのジャンパーの方が羨ましかったのです。
この手編みのオーバーをいいなぁって言ってくれる子はいましたが、
私だけ手編みですよ、色も子供が好む明るい色ではないので、
当時は恥ずかしかったのです。
母が、「これ、捨てられなくて」って出してきたので、
私も見ると、
雪の頃フードを頭にかけて津山市内の小学校に通学していた
寒い冬の頃が想い出されました。
とっても小さいんです、
こんな頃が私にもあったんだなぁって、
懐かしい、、
なので持って帰ってきてしまいました。
大切に想い出箱にでもしまっておきます。
青いのはワンピース、
これも覚えてるんですよ、着ていた頃の事を。
ワンピースは
りんごのアップリケもつけてくれて、
袖は赤毛のアンの服みたいに肩のところふわっとして、
というリクエストに答えてくれて、
母が感覚的に適当に編んでくれました。
肩のところ、ふわっとなってるでしょ?
左のグリーンのセーターも、
これを着ていた頃の事が想い出されるんですよねぇ。
雪の中走り回っていた頃の事。
高校を卒業して、
神戸の短大へと進学して、
一人暮らしをするようになって、
神戸の暮らし、
学校での同級生たちを見て、
田舎者の私はカルチャーショックを受けたのを覚えています。
岡山の言葉と関西の言葉はアクセント?イントネーション?
どっちでしたか、が違いますし。
兄も関西に住んでたので、
大阪や京都や神戸にはよく旅行に来ていて、
なじみもありましたが。
ペースも雰囲気も町の便利さも全然違います。
いつも自転車だった私は、
電車に乗ってどこかに行く、という事がとても新鮮でした。
就職してもなおドジな事をしていましたし。
夏暑くなって会社から帰ってきたら暑いので、
2階だったし、窓を開けて出勤していたのです。
会社でも同期の子にその事を話したら、
危ないよ~って言われて、なんで?って2階やし大丈夫や~、
なんて言っていたら、
窓を開けだして3日目のある日、
帰宅したら部屋の中がグチャグチャになってました。
はい、、空き巣にはいられたのでした。
5、6万と小銭までとられて。
警察呼んでカンシキさんが来られたりと、
とってもいい経験にはなりましたが、とってもショックでもありましたね。
ま、他にもたくさんありますが(^_^;)
母に言わせると、
関西での暮らしは長いですが、
私はちっとも変わらない、垢抜けないそうです。
いつまで経っても男の子みたいで、ガサツで大雑把。
家の中で側転の練習をして窓ガラスに体当たりしてしまって、
ガラスを1枚ガシャンって割ってしまった小学生の頃。
女の子なのに考えられない事をしていた、と、
今でも時々言われますので(^_^;)
そんな男の子的エピソードは他にもあります…。
自分のルーツの再認識へ、
今年はまだまだつづきます。